北アイルランド留学日記

2020年10月3日、コロナ禍のなかで渡航して、語学留学をした記録です。

「偏見がない」ってどういうこと?

 リサーチスキルの授業では「偏見のない資料を探しなさい」という指示が出ます。「偏見がない資料」というのは、一方側からだけの主張ではなく、両方の立場を勘案して主張を行うとされます。それは悪くない説明だと思うのですが……でも、それって正しい?

 たとえば、私は今日の夕方、テレビでアメリカの選挙戦についての報道を眺めていました。BBCは、大統領候補のトランプとバイデンの両方を取り上げ、さらにメタな視点から「アメリカの選挙制度はこれで良いのか?」「英国と比べてどうか?」と視聴者に投げかける内容でした。これは両方の立場を勘案して主張を行なっていると言えるでしょう。でも出てくる人たちは全員白人でした。

 他方、チャンネル4*1は、はっきりとバイデンを好意的に取り上げ、マイアミ州などでトランプを批判するアフリカ系の女性たちの声を伝え、アフリカ系の人々が選挙権が抑圧されていることを主な報道内容としました。

 これってどちらが「偏見がない」報道なんでしょうか?後者は一方側からの主張だから、「偏見がある」のでしょうか?

 同じことはアカデミックな資料でも起こります。アカデミズムの世界は、圧倒的に白人男性が多数派を占めています。かれらの資料は、科学的で中立的で客観的に見えます。そして、かれらが作ったルールに基づいて、権威が与えらます。でもそこで述べられる主張は「偏見がない」のでしょうか?そこで権威が得られない資料は、「偏見がある」のでしょうか?

 私の頭の中は常にこういうことが渦巻いています。これを、ここで議論すべきか。いややり過ごすべきか。そもそも、私がこんなことを考えて迷わなければならないのは、なぜなのか。そういうふうに毎日を過ごしています*2

*1:国営放送のひとつで、マイノリティ、若者向けとされる

*2:一応、書いておきますが、私は日本でもいつもこんな感じなので、別に取り立てて苦痛というわけではないです。むしろ、日本で性差別に耐えるしんどさよりは、ずっとマシではあります。さりとて、どこでだってimpartialというのは難しいものだ、ということだと感じています。