北アイルランド留学日記

2020年10月3日、コロナ禍のなかで渡航して、語学留学をした記録です。

「安全な授業」とは?

 オンライン上のやり取りで、日本の仕事に関する人間関係で、ちょっとしたトラブルが発生して「安全とはなにか」について考える機会がありました。

 実は「心理的安全」という言葉はいま、トレンドでもあって、一般企業でも、働いている人たちが「ここは安全な場だ」と思うことで、良いパフォーマンスを発揮すると言われています。つまり、職場のマネジメントとしても注目されているということです。

 ちょうど、語学学校のオンラインの教材でも、教育の場で心理的安全を確保することの重要性について述べるレクチャーが使われていました。講師によると、人間の脳は「学習モード」と「サバイバルモード」があります。学習モードの脳は、丘の上から下に広がる森を眺めているような状態です。新しい情報を受け止め、内容が曖昧であってもそのまま理解しようとします。他方、つらい経験をしてトラウマを負った脳は、サバイバルモードに入り、相手に攻撃されないか不安でいっぱいです。これは森の中をさまよって、丘へ上がる道を探しているような状態です。自分が情報を間違えて受け止めていないか不安であり、答えに白黒をつけたがります。このサバイバルモードに入った脳が、学習しようとするのは大きな岩を背負って坂道を登るようなもので、苦痛に満ち、常に失敗して傾斜を滑り落ちます。こうして失敗経験を積み重ねて、どんどんサバイバルモードは強化されていきます。そのため、新しい学習には、自分のことを理解してくれると感じている他者に囲まれ、安全だと感じていることが大事だという話でした。

 これは、もう「学習」というものを経験したすべての人が「あ、あれのことだ!」と思い出す話ではないでしょうか。特に、日本の教育は厳しく生徒・学生を糾弾することがあり、脳がサバイバルモードに入りやすくなっています。また、私から見ると、教員の側がサバイバルモードしか知らないので、大きな岩を背負って苦しんでいないと、生徒・学生が努力していないとみなすことすらあります。でも、それは非効率的な学習です。

 さらに難しいのは、学習者がサバイバルモードに入るのは教員の問題だけではないことです。私自身、英語の学習についてはサバイバルモードが強く出ます。これは、英語と関係ない個人的な事情によるトラウマの影響もあります。教員のちょっとした言葉でサバイバルモードのスイッチが入りやすくなっています。しかも、困ったことに私はそのことに自覚があるので、サバイバルモードに入ってしまった自分を責めたり、なんとか自分で学習モードに切り替えようと悪戦苦闘します。そのことで逆に緊張が強まり、どんどん不安は増し、悪循環に陥っていきます。

 逆にいえば、教員の側からみてサバイバルモードに入った学習者にどう接するのかも非常に難しい問題だと思います。自分のことを考えても「どうして欲しい」というのは思いつきません。

 と、思ったのですが、私は今受けているGの授業ではほとんど不安も緊張もありません。そのせいか、英文を書くことに抵抗もなくなってきましたし、スピーキングも(オンラインには限りますが)なめらかになってきました。上手に学習モードに入っているといえます。なぜ、こんなことが起きたのだろう?とぼんやりと授業を眺めていました。

 まず気づいたことはGは、本当に儀式的に何度も何度も「ここまでは質問はありませんか」「質問がある場合はマイクのミュートを解除してください」と問いかけるということです。90分の授業で5回から10回は尋ねます。こちらが「質問してもいいことはもうわかっているだろう」と思ってもまた聞きます。これは少し不思議な方法で、だんだんとGの決まり文句が呪文のように聞こえてきます。いつの間にかこちらも「今のはわからなかったから、次にGが聞いてくれた時に質問しよう」と習慣化します。実は呪術的な方法かもしれない、と私は最近、思うようになりました。

 もう一つは、Gが課題を出せなかった学生に何度も語りかけることです。「もし、課題を出せなかった場合はゼロです」「助けが必要ならば言ってください」「先生がブチ切れて怒ってる?そんなことはありません」「課題ができてないどうしよう、とパニックにならないで。深呼吸をして相談してください。一緒に進めていきましょう」と、当該の学生は指名せず、全体に語りかけます。私は日本でずっと過ごしていましたから、強迫的に「締め切りまでにはすべて課題は揃えて、心配だから早めに送信しておこう」と思い、すべての課題は提出済みです。しかし、Gが語りかけているのを聞いていると「そんなに思いつめなくていいんだなあ」と気が楽になります。そうすると、課題を進めていても手が速く進みますし、最短距離で仕上げるのではなく、「こういうこともやってみようかな」という挑戦もできるようになります。自分から難しいことをやってみようと思えるのです。

 私はここに来る前から、教育について「できない人をそのまま大切にすることで、できる人も伸びていく」という仮説を立てていました。できない人に対して、手厚くケアをして、ハードルを下げると、できる人のモチベーションが下がるのではないかという心配が、教員の中には常にあります。でも、できる人は「ここはできなくてもいい場だ」と思うと、逆に失敗を恐れずもっと難しいことにチャレンジしていくのではないかと思ったのです。

 今回、Gの授業では自分が立てた仮説を、経験的に実証したような気持ちです。しかし同時に、Gのような手厚いケアは、今いる語学学校のように学費が高めで、学生数が少なく、スタッフがみんなプロフェッショナルという恵まれた環境でのみ機能するのだろうとも思います。また、はたしてGの方法で最後まで私も含めて、学生のモチベーションは保たれるのか気になるところです。これから試験に向けて課題を仕上げていく段階に入っていきますが、牧歌的なGのやり方で対応できるのか。後半がどうなるか気になるところです。